どこにも需要はないと思うのですが、今回の不始末のお詫びがてら昔書いた雑文を。
10年ほど前に某イベントで頒布した『このはちゃれんじ!』というゲームのサイドストーリー……の、ごくごくごくごく短いプロローグです。

たぶん10数人くらいの目にしか触れてないんじゃないかしらん。
(本来はことみようじさんのイラストが何点かあったのですが、そちらは手元に残っておらず)

結局続きは未だに書けてないんですが。
だって女の子出てこないし。ほとんど野郎二人だけの話だし。こんなん誰が望んでるんだ!(※主に僕)

では、もしかしたらいるかもしれないどこかの好事家の皆様に向けて、どうぞ。
<このちゃ! ~ちょっとまえ~ プロローグ>

 最後の荷物を足下に降ろす。とすん、とダンボール箱の中から軽い音がした。
(……こんなものか)
 引っ越しという言葉からつい大げさな作業を連想していた彼は、そのあっけなさにいささか拍子抜けしていた。
 しかし、もともと自分が身の回りに物も人もあまり寄せ付けない質だということにすぐ気付き、苦笑する。
 実際、それどころか、どうしてもそばに置きたいという大切なものすらなにひとつ持たない。少なくとも今はない。
 パスケースに忍ばせた彼女の写真ですら、そうだ。自分には、写真よりも鮮やかな色を宿した想い出がある。そう思う。
 特殊紙に印刷された画素集合体であるところの彼女の像を眺めたところで、心にはもはやさざ波ひとつとて立つことはなく、すなわち穏やかそのものだ。
 彼はそう一人ごち、自分で切り揃えたショートヘアをいつもの癖でかき上げる。
 ここまで平常な己の有り様を取り戻すには、長い長い月日が必要だった。
 まさに水が炎を掴むがごとき努力を重ねてきたのだ。
(だが、それしきなにほどのこともない)
 心でそう呟くと、その穏やかな眼差しで写真を見つめる。
「……」
 さらに、その穏やかな指先で、そっとパスケースから写真を取り出す。
「……」
 加えて、その穏やかな唇を、写真の中の彼女にそっと近づけてゆく。
「……」
 ちう――っ、と唇はその先を求め。
「……」
 彼・写真間はもはや、のっぴきならない距離にまで縮まって。
「眼鏡……巨乳……猫耳……」
 そこにはもはや、ちゃちゃすら入る余地も。
「……?」
 ……余地はどうやらなくもないようす。
「続きは?」
 写真を握りしめた彼は、背後を振り向き、凝固し、凝視し、もひとつ凝固した。
 なんとなれば、背中に寄り添うように何者かがそこにいたからであり。
「……ひゃあああああ!?」
 うわあ、私ってばこんなハイトーンボイスも出せるんだ! てなことを思う暇もあらばこそ、彼、道法寺織人は壁際まで一気に後ずさる。
 その動きたるや、おおよそ普段は出せないほどの秒速を記録したものの、織人が知るよしは残念ながらちいともない。
「なななななんだ、君は――――ッ!?」
 語気に相違して、プンスカよりもまず羞恥、これ以上ないくらいの照れりズムにて織人は手足をばたばた動かした。
「僕かい?」
 晴れやかー、さわやかー。
 『超ハズいとこ見られて自分マジなとこかなわんっす! ていうか全然穏やかなる心取り戻せてないじゃん!』といった織人の切実な気持ちは、す――い、とそんな青年の微笑みの上を滑っていった。
「もう少し、見ていたかったよ……君の情熱的な行為を。臨床医学的意味で」
「『情熱的』が主か『臨床医学的』が主かで意味がだいぶ違うくないか、君!」
「……」
「……」
「……気持ち精神病理学的?」
「さらに具体的かつ深刻になってる!?」
 白衣に身を包んだ長髪の青年は、相変わらず眼鏡ごしに楽しげな視線を投げかけてくる。年齢は織人とそう変わらないだろう。
「……?」
 白衣・長髪・眼鏡で、さらには同年代。それら青年の構成要素が織人の中にて、ぴしぴしぴしり、と合わさってひとつの答えが導かれる。
「よもや、と思うが……」
 織人は眉間に思わず指を添えた。
 それは『自分、それマジでえ?』てな場合に、憂いを堪え忍ばんとするときの癖なのだけど、当然そんなこたお構いなしで笑みを頬に刻む青年だった。



「貴英」
 厳格そうな髭で口を覆った老人が、前をゆく青年を呼び止めた。
「なんでしょう」
 乙丸貴英は長い髪をほんの少しだけほつれさせ、声の主を振り向いた。
 二人しかいない長い廊下には、格式ある屋敷に相応しい静けさが漂う。
「考えを変える気は?」
「四十年前のあなたなら、どう答えるでしょうか」
 言葉を返す代わりに老人は笑う。小さく。優しく。
 そもそも聞くまでもないことだ。
 恐らく貴英は若い頃の自分よりも頑固だろう。
 そして、ただ一人、彼の気持ちを変えることが出来たろう少女は、もういない。
 老人は、日御子朔之介はそのことを知るからこそ、彼と彼らを見守ることを選んだ。
「僕は尊敬するあなたがなぜああいう研究をなさっていたのか、ずっと不思議でした。あなたからその理由を聞いても、それは変わらなかった」
「もとより誰かに理解を求めることではないからね。過去をありのまま語ることが友人たちへの手向けにもなる、そう信じただけなのだから」
「……」
「だから、過ちだった、とは言わない。それはなくしたすべてへの冒涜だ」
「ええ――」
 貴英は、ほんの少し間をおいて再び口を開く。
「今ならわかります。ウォルト・ドゥーガン博士」
 古い名で呼ばれた朔之介は、顎に蓄えたブロンドの髭を撫でた。
「家筋は遠くとも、おまえは私の血をいちばん濃く継いだようだ。それが善きか悪しきか……」
「善し悪しは、わかりません。ただ、あなたにはとても感謝しています。僕たち二人、それだけは間違いありません」
「……」
「ななちゃんには、もう僕に近づかないよう言い聞かせておいてください。僕はあの子のためにならない」
「私も人並みに孫には弱い。あまり期待はしてくれるな」
 固い空気がほんの少し和らいだ。
 このいかつい老人のたった一つのアキレス腱が、十歳そこそこの可愛らしい女の子、というのは皆が知るところだ。
「彼女には俊介さんのような人が似合ってます。僕には、人を幸せにする力が足りない」
「不器用というなら、俊介も似たようなものだ。あれは父親に似て真面目すぎるところがある」
 朔之介は俊介の父の懐かしい顔を思い浮かべた。
 親友であり仇敵でありやはり親友だったあの男が、少し笑ったような気がした。
「……いいものですね、友達とは」
 翁が俊介さんの父に言及するとき、いつも、どこか遠くに置いてきたなにかを思い出す。
 友人と呼べる誰かが僕の側にいたことがあるだろうか。
 僕は毎日を、大切なものを守ることだけに費やしてきた。
 なにもかもを犠牲にしてもかまわない、とそう思ってきた。
 けれど、それは違った。
 僕は結局、守らなきゃいけないものがなんなのか、わかってはいなかった。
 だから――
 改めて朔之介に向き直り、貴英は微笑む。
「協会のみなさんが推薦された人物に協力します」
 目を閉じ、粛々と老人は頷いた。
「ホムンクルスは僕が完成させます」



「お嬢さまには会ってゆかれないのですか?」
「ええ。その方がいいと思います」
 朔之介が所有する研究所兼住居は、この日御子の屋敷や貴英のマンションからは遠く離れた場所にある。
 交通の便が良いとは言えないそこへは、電車を乗り継いで半日は優に掛かるだろう。
 菜苗にはそこに移り住むことを伝えてはいない。
 意地悪なようだけど、僕のことを忘れてしまうまで、僕がひどい男だとわかる大人になる日まで、会わずにいた方がいい。
 貴英がそう決意したのは、菜苗の一途さを知ってはならない方法で知ってしまったからであり、俊介に対しての謝意でもある。
「……そうですか」
 内心を伺わせない表情で、俊介は頷いた。
 菜苗が生まれた頃から、側でずっと仕えてきた。
 だから俊介は、菜苗のことを誰よりもよく知っている。
 菜苗が貴英に年の離れた従兄以上の気持ちを抱いていたことも、その気持ちを彼女なりに伝えようとしたことも、やはり知っている。
 その気持ちは決して報われないだろうことも。
 そんな菜苗をこれから先も守っていこうと俊介は思う。
 父を亡くし、母を亡くした自分を育ててくれた日御子翁に報いる。
 その意味だけでは説明しきれない感情であることは理解していたけれど、それ以上は考えることをやめていた。
 彼女は自分を慕ってくれてはいるが、それは共に育った兄弟代わりの相手への親情に過ぎない。
 それでいいと思う。
 自分は常に彼女の幸せを支える杖でありたい。
 出来得れば、菜苗の幸せが貴英の幸せと重なって欲しかった。
 俊介にとって、菜苗を妹としたなら、貴英は弟のようなものだった。
 彼は親戚家で辛い思いをしたせいか、なかなか他人には懐かなった。
 しかし辛抱強く話しかければ、小さな笑顔で答えてくれることが何度かあった。
 今はそうした笑顔を見ることもない。
 菜苗と貴英とそしてあの子と、三人のお守りをしていた頃を思い出す。
 きっと、貴英にとってのあの子は、自分にとっての菜苗と同じ存在だったのだろう。
「お元気で。短いお別れであることを祈っております」
「……」
 貴英にはそれが俊介の本心であることがわかっていた。
 自分の菜苗に対しての仕打ちを知ってもなおこう言えるのが、俊介という人間なのだった。
 そんな彼に十分に応えることが出来ない自分を歯がゆく思う。
 貴英は手を差し出した。
 俊介もなにも言わずにその手を握る。
「またお会いするときには、少しご迷惑を掛けることになるかもしれません」
「今までついぞ聞いたことがないあなたのわがままをようやく聞けるかと思うと、胸が高まります」
 そう言った俊介の笑顔は、力強かった。
「途方もないわがままです。それでも構いませんか?」
「ええ」
「……」
「お嬢さまと共にお待ち申し上げております」
「ありがとう、俊介さん」
 二人は、ゆっくりと手を離す。
「……」
 友人とは言えない。肉親とも言えない。
 だけど、その二つを兼ねようとしてくれた彼に、貴英は一礼して、踵を返した。



 住居部分はともかくとして、まずは人の手が触れずに久しい研究設備の掃除に、二人は明け暮れていた。
「ところで道法寺織人くん」
「ぷんぷん! なにか! ぷんぷん!」
 こっ恥ずかしいファーストコンタクトを経て二日、今もってして、彼らは打ち解けてはいない。
 ていうか、ぷんぷ――ん! と織人が一方的にそっぽを向いている。
 かいた恥より、そのぷんすかっぷりのが恥ずかしいような趣もあれども、織人イズムにおいてそれは否定されるのだ。
「僕らは、これからここで研究をしながら共同生活を営むわけだけど」
「ぷんぷん! そんなことはわかりきっている! ぷんぷん!」
「研究を成就させるためにも、ここはお互いの理解を深めておく必要があると思う」 きり、と急に語調を変え、貴英は至極真っ当なことを言った。
 織人も渋々とはたきを持つ手を止め、割烹着を脱いで、貴英に向き直った。
「……それは、確かにその通りではある」
「ではまず、お互いがお互いのことを知らなければならない。先日は不幸な出会い方をした僕らではあるけれど」
「不幸な出会いにしたのは誰だと私は問いたいが」
「ボケあるところツッコミあり……国やぶれて山河あるかのような、この自明の理を僕は体現しただけなのに……」
「わわわ私の愛の行動をボケと捉える君がまずアレだ!」
「そう、その辺りから知っていこうと思うんだ」
 眼鏡をきらりん、と輝かせ、貴英は長い髪を掻き上げる。
「君の愛の行動とやら……あの写真の彼女はどちらさま?」
「……そそそそそんなこと私たちの研究には関係ないッ」
「ほほおう」

ぎらりん

「ああ!? まばゆい!?」
 さらに強迫的輝きを増した眼鏡に、織人は思わず目を覆う。
「本当に関係がないのかな? さあ、言いたまえ、道法寺くん、いやさ織人くん」
 ずずずい、と織人との距離を詰め告白を迫る眼鏡ロン毛魔人。
 その様相は既に親睦を深める構図から遠く離れていることに気付け織人、後ろ後ろ――っ! と観客があらば叫ぶこと請け合いだ。
「かかか関係……ないさッ」
「大丈夫……言ってくれさえすれば僕だって秘密を話すさ」

ぎらぎらぎらり

「嘘だ――ッ! その眼鏡の輝きは、嘘あるいはもっとひどいことを考えている輝きだ、ほぼ初対面でたいへん失礼な物言いではあるけれど!」

だだだだだ――――ッ

 織人は、ぎらぎらと放射を続けるシャイニング眼鏡を避けて自室へと駆けていく。
「……君の秘密は、きっと、僕の秘密にほど近いと思うんだ」
 途中、どんがらがっしゃん、と派手に掃除用具に躓いて転げたためか、呟きほどの貴英の小さな告白は彼の耳には届かなかった。